いよいよ来週だね!AQFF

2007年に開催されたAQFF(そのときのレビュー)。
会場でオーガナイザーさんが「2年に一回やる予定です」とおっしゃっていたので、ネットなどをチェックしつつ心待ちにしていました。

第1回が春だったもんで、勝手に春かなと思ってたら、今年は秋なんですねー。
けっこう会期の発表が遅くてドキドキしちゃいましたが、いよいよ来週から始まります!


以下はmixiのコミュからの転載。

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■AQFF2009開催決定!
2年に一度の開催を目指すAQFF、その第2回目となる開催日と会場が決定致しました!

会期: 2009年9月19日(土)〜23日(水・祝日)
会場: KINEATTIC (キネアティック)
http://www.kineattic.com/access.html

会期は敬老の日国民の休日秋分の日で五連休になっています。
今回も前回に負けず劣らず、貴重な作品の数々を準備中です!
最新情報はこのコミュニティおよび公式サイトに掲載しております。どちらもぜひチェックして下さいネ!
http://aqff.jp/

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わたしは、22日(火)にガールズプログラムとドキュメンタリープログラムを観る予定です。
前売りがなくて、当日の最初のプログラムの30分前から整理券配布というシステムらしいので、早めに原宿入りして、新潟館で買い物したりヒルズの長谷川酒店で一杯やったりしようと思います。


※今回から、AQFFの正式名称が「Asian Queer Film&Video Festival in Japan」から「アジアンクィア映画祭」に変わったそうです。

『語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象』

ついったーのTL中で触れられてて、面白そうだなと思い読んでみたよ。
わたしはいわゆる「ハルキスト」ではないけれど、村上春樹の作品の9割ぐらいは読んでます。


※以下「ノルウェイの森」と「スプートニクの恋人」の内容に触れています。未読の方はご注意ください(一応ね)。


村上春樹の小説にはレズビアンが出てくる作品が二つある。
ノルウェイの森」と「スプートニクの恋人」だ。
そのどちらも読んでいるんだけれど、どうしようもない違和感がわたしにはあって、それがなんなのか知りたいなあとは思っていた。


特に「ノルウェイの森」に登場するレズビアン像は、なんというか安っぽくって、レズビアンの女の子とのセックスシーンの描写は、レズビアン・ポルノとして多くの読者に消費されたであろうし、勘ぐればそもそもポルノグラフィックなスパイスとして挿入されたようにも読めて、リアルじゃないとか、レズ=誘惑する変態という偏見とか、それ以前のもの。非常に薄っぺらいなあという印象を受けていた。


また「スプートニクの恋人」は、女性に恋に堕ちてしまった女性が登場するんだけれど、女性だから好きになったわけではない、たまたま女性だっただけみたいなよくあるパターンで、最終的に女性同士の恋愛は成就することなく、主人公のもとへ帰ってくるという結末で、特に性愛の描写があるわけではなし、正直なんで村上春樹レズビアンを描こうとするのか、その必然性が理解できなかったんだよね。
作中の

「わたしはミュウ*1と交わらなければならない。彼女の身体の内側まで入ってしまわなけれなならないのだ。彼女に私の身体の内側に入ってもらいたいのだ。貪欲なぬめぬめした蛇のように」(206P)

みたいな記述を読むと、まあそんな風なことをまったく思わなくもないけれど*2、「『膣の中を(愛する人の)何物かで埋めてしまいたいっていう飢餓感が女性にはある』っていう意味なのかしらねー、ヘテロ臭いわねー」とその臭気が鼻についちゃって、「あー、なんで春樹はレズを登場させんのかしら?ってむしろ要らないしー」な気分がしてた。


本書では『女性(レズビアン)表象』と括弧書きがついているけれど、女性表象全般について論考されており、レズビアン表象についてはその一部分という感じです。
でも、決して軽んじられているわけではなく折に触れレズビアンの描かれ方について他書からの引用も挿入しながら考察されています。

村上春樹が作品の中で、女性という存在をどう描いてきたか、女性の(性的な)欲望をどう物語の中に織り込んできたかについて、村上春樹の小説の登場人物じゃないけれど、「やれやれ」と文末に付け加えたくなるような淡々としたクールなトーンで語られていきます。


わたしには俯瞰したレビューを書く力はないので、今回はわたし個人が違和感を感じた部分と対応する箇所のみピックアップしてみます。


まず「ノルウェイの森」について

31歳の玲子サンを誘惑する「筋金入りのレズビアン」である13歳の美少女という設定は、著者もちょっと非現実的だよねーって指摘してます。

この女の子には名前が与えられていないんだけれど、そのことに個別性より典型を強化する作用があることを危惧してる。この女の子の描き方はレズビアンに対し読者に嫌悪感と距離を引き起こさせる描写で、異性愛を補完するものとしての役割をするとも。

うん。わたしもそう思った。レズ十把ひとからげ的な雑な扱いだなあと。やれやれ。


ただし、他の女性の登場人物たちがアイデンティティの揺らぎを抱えているのに対し、この女の子はなんせ「筋金入りのレズビアン」だからさ、強烈な自己認識を持っていると肯定的にも評価できるとしてます。

その読みはどうかなーとちょっと疑問に思った。

それから13歳の女の子に誘惑されたという部分は実は玲子サンの妄想だったので、女の子の描写が類型的になったという解釈もできると。

それは、深読みすぎではないだろうか・・・
そんな落ちは嫌だ。妄想なんだからアリでしょってことですか?

「1960年代末の日本でレズビアンは、常に負の表象にさらされ、一方的であり当事者の語りが閉ざされていた時代」

であったと締めくくっている。

時代背景的なことは、あんまり考えてなかった。
わたしたちがリアルだと感じているレズビアン像って現代のごく狭い範囲で出会った人たちのイメージの寄せ集めな訳なんだよね。
当時のレズビアンがおかれた状況として、当事者の語りが封じられて、侮蔑と汚辱の代名詞としてのレズビアンの描写とするならば、納得できなくはないと思った。

ただし、不快ではあるよね。

村上春樹は一貫して安易に共感しないってことを自らに課しているような意地が悪いとも取れる冷徹な描写をしているように私には読める。「非当事者」としての繋がれる部分に光を当てるのではなくて断絶した部分を、闇を照らすような表現を好んでいるように思えるのだが。



次に「スプートニクの恋人
こちらはですね、要は「ノルウェイの森」ではレズビアンとは侮蔑と汚辱の代名詞的な位置づけだったが、時代が下って、「好きになった人がたまたま女だっただけ」って語れるようになって、進歩してよかったねっていう解釈に読めました。
わたしがバカなので理解が違うかもしれません。

なので、あまり言うことはないです。


村上春樹作品では性的欲望を女性が求めたりすると、苦悩したり引き裂かれたり、いつも尋常じゃない感じ。
女がセックスしたいと思うことと、そのことに自覚的であること、そしてそれを行動に移すことは、なんだかもう、死んじゃうぐらいの大事なわけです。

この両作品もそんな感じなんだけれど、女性が主体的に誰かを欲望するというシチュエーションを描きたいと思うと女性同士の方が描きやすいのでしょうか?

それとも、女性が男性を欲望するという視線を描くのは、陳腐になりやすいとか下品に堕ちやすいとかあるんでしょうかね。

別に女性が男性を強く深く求めてもいいと思うんだけれど。
そういう小説は女性の作家が多く描いてるか。
男性からの目線で書くと嘘っぽくなっちゃうのかな。
それを言ったらレズビアンを男性が描いても同じか・・・


本書の中では、村上春樹以外の作家の作品にも触れられています。
このような読みのまとまった著作は多分これが初めてだと思うけど、もっともっと出てくると面白いのにと思いました。

興味を持たれた方、ぜひ読んでみて下さい。
ただし、対象作品をはじめハルキ作品を複数読んでいる人でないとちょっときびしいかもしれません。


村上春樹作品については「海辺のカフカ」中のフェミニストトランスジェンダーの登場人物の描き方にも突っ込んでみたいところだけれど、長くなるのでやめておきます。ともかくだ。内田樹オジサンがきゃっきゃ喜んで語っているような、素朴なフェミニズム批判ではないという印象です。



語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象

語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象

*1:22歳の小説家志望のすみれが恋をした17歳年上の女性

*2:わたし自身はどちらかというと折り重なった二人の身体の境界線が溶けてなくなってしまう感じが切実に欲しい感覚。でもこれって女同士で肌質が近しいってのもあるかも。あの感覚のひりひりぞくぞくする感じ、いいですよねー。

大切な人は誰ですか?

昨日、友人と話していたら元カノジョの話題がちらっと出た。
元カノジョとは、連絡を取り合うこともなく関係が切れていて、偶然にL&G映画祭のホワイエで見かけて私のほうから一方的に二言ぐらい声を掛けたのが最後。

そのときの様子なんかからしても元気でやっているんだろうとてっきり思っていたんだけれど、どうやらそうでもないようで少し驚いた。

もうわたしにできることも、掛ける言葉も何も残っていないのだけれども。

友人はわたしに元カノジョの気持ちを伝えてくれようとして「(付き合っていた当時)友達の中には、それは彼女(わたしのこと)が悪いよ。そんな彼女とは別れた方がいい」って言う人も多かったけれど、あなた(その友人のこと)の「レンアイにどっちだけが悪いってことはない。どっちもどっちだと思うよ」という言葉が、一番うなずけたと元カノジョが言っていたと教えてくれた。

友達にレンアイ相談をして、彼女のことを悪く言われると、文句を言いつつも「そんな悪い人じゃないよ」とかばいたくなったりするけれど、元カノジョもそんな感じだっただろうか。

そんな話を聞きつつ、レンアイしてケンカして友人に相談すると、「そんな酷いオンナ、別れなさいよ!」的な展開になりがちで、そうなってしまうと、カノジョだけではなく相談されたカノジョの友人まるごと、ごっそり関係が切れてしまったりするなあ、なんて考えてた。

そうだろうとも。
多分、わたし相当にひどいオンナってことになっているであろうと想像できた。
あ、すんごいひどいことしたって意味じゃないですよ。
すれ違い度がはんぱなかったんですよ。
お互い、求めるもの、価値観、いろいろなことが違いすぎて、相手の事情を慮る想像力が、ふたりともガス欠状態で。

カノジョとのほうが親しいAさんやBさんやCさんにも、ひどいオンナだと思われているのであろうことを想像してしまい、仕方ないこととはいえ、夕べはちょっと凹みました。

最近になり、そういうしがらみはあまり気にせずコンタクトを取ってみよう!なんて思いかけていたところだったので、どうしたものか…と思考は停止。

レンアイ相談って無意識に自分にとって都合の悪いことはショートカットしがちだし、文句言いつつもカノジョの側のプライバシーもあるからなんて考えて、問題の核心に近いカノジョの事情を隠したりするので、片方だけの話を聞いていると事実とかなり食い違うことがあります。

そこんところ、うまく乗り越えて、人と繋がれないものだろうか。
それはきれいごとでしょうか?

可能性をバシっと閉じ切ってしまうのではなく広がる余地を残しつつ、自分にとって大切な人、そして親しみを分け合える人とコミットメントする方法を考えています。

なにかと狭い、狭すぎるレズビアン・コミュニティ。
カノジョと別れるたんびに友人とも切れてたんじゃ、そのうち身動きが取れなくなります。
元カノジョとばったり出くわすのが嫌でコミュニティに顔出しにくくなるなんてよくある話。

タフになるしかないんすかねー。

※先週、以前におつき合いしていた人がわたしの後におつき合いされていた方がされているお店で食事してきました。意外なことにわたしのことを覚えていてくれて「○○ちゃん?」って声を掛けてくださいました。ほんのり嬉しかったです。こういう再会は心が温まります。

第3回まんこ座談会レポ

先月の連休の中日に第3回まんこ座談会を開いたよ。
あー、あれからもう3週間以上経っちゃったんだなあ。
あの頃はほら、こんなだったもんで、レポ書く余裕なしだったんだよね。

今回は、秋に行われる第22回ウーマンズ・ウィークエンドに、このまんこ座談会的なのをワークショップとしてやろうよっていう企画があって、その打ち合わせも兼ねていたので、もうまんこ語りは白熱!!
結局、ワークショップの進行原稿を作成し終えたのは朝7時だった。
夜が明けてからは、みんな異様なテンションで「これやりながら、この曲流したい〜」とか大盛り上がりでさ、冷静になってみてそれが果たして盛り上がるのかどうかは、リハやってみないと分からないけれど、でも多分面白いと思うー。

まあ、そういう訳で、酔ってしまって話したかったことが話せなかったーってなるのが嫌だったから、事前に話したいことを文章にしてみたの。
以下は、ミクシーの日記に上げたもののコピペ。

1.「美しい」まんこ、「萌える」まんことは?
男性にとってのまんこは客体だが女性にとってのまんこは主体。
「どんなまんこがよいか、好きか」という品定め的な視点ではないまんこ語りを。
わたしには軽い醜貌恐怖があって、まんこ周辺はコンプレックス的要素が濃縮されてるエリアでもある。
「どんなまんこだって美しいわ!」という政治的に正しそうなお話ではない、ぶっちゃけたトークを。

2.インポについて
ここんところやっと快復傾向にあるのだが、まだまだ勃ちが悪いです。
さらっさらしてます。
インポの意味について考えたい。
インポがもたらす変化について、良いことも悪いことも。

3.セックスしない身体とセックスする身体の違い。
わたしはかれこれ10ヶ月ぐらいセックスしていない。過去には3年ぐらいセックスしてないこともあった。
今後もセックスしない生活がデフォルトになるだろう。
三砂ちづるなどに代表される無邪気な身体論は、女はセックスし子供を生むことで心身の健康が保たれるような主張を展開するが、実際にセックスすることで得られる身体的精神的効用とはあるのか、あるとしたらどんなことか、そして、それを他の行為や身体操作で置き換えられる可能性について考えてみたい。
mixiの日記より転記)

これら3つの話題については話したような、話さないようなって感じ。なんせ、トークが膨らむし、飛ぶし、ひとつのところに留まってなんかいないぜ!って勢いだったから。

1の話がらみでいうと・・・
自分のまんこのコンプレックスについて語りだしたとき、なんだか急に悲しくなってしまってわたし泣いてしまったのさ。
Mさんに「どうしてそう(汚いとか醜いとか)思うの?人と比べたわけじゃないんでしょ?」と言われたんだけれども、小学生ぐらいのとき、わたしには自分のまんこがどんどん毛で覆われてゆくのが嫌で嫌で、色もくすんでゆくのが恥ずかしくって仕方がなかった。そんなのは自分だけなんじゃないかって思い込んでた。どうしてそう思うようになったのかは今になってもうまく説明できない。
大人になって少なくない数の色々なまんこを見てきて、自分のまんこは割と普通っていうか、もっとキャラ立ってるまんこってたくさんあるなあって分かったんだけれど、だからって自分のまんこを肯定できるようになったかというと、それはまた別の話。
Mさんに「それだけまんこが貶められているってことなのよ!」と言語化してもらったんだけれど、根っこはそういうことなんだろう。

2の話は、あんましうまく膨らませられなかった。
インポは多分緩解傾向にあると思うんだけれど、なぜかオナニーの回数は激減。「んもー、いまわたし、オナニー氷河期ですよー」って言ったのは覚えてるんだけど。はは。

3の話は、けっこういい膨らみになったと思う。この辺の切り口からボディワーク的な要素をワークショップに入れてみようという流れが出来たし。

それにしても、Mさんのしてくれた、たちの悪いタチの話は面白かったなあ。
わたし、KちゃんとMちゃんカポー相手に馬乗りになって恥骨結合を緩めるときの体位とか実演しちゃったりした。
酔ってたなー。楽しかったなー。


Kちゃんが見事に書記してくれて、Mちゃんは会話の段落を区切るように、ナイスなタイミングでキャッチーなコピーをつけてくれて、朝7時まで一滴も飲んでないこの二人のおかげで、座談会がいい具合に締まってるんだと思う。ホント感謝。

話の途中で、「うちら今夜何回『まんこ』って言っただろうねー?」てKちゃんが言ってたけど、マジ1万回級だったよ。あの夜は。

切ない週末

社交のかいがあり、ちょっといいなあって思う人がいて、お食事に誘ってみたりしていたんだけれど、わたしが距離を縮めすぎちゃったみたいで、やんわりと釘を刺す「これからはお友達として食事に行きましょう」というメールをいただいた。

あー、なんにも始まらないまま、終わってしまったよ*1
そんな先週末。

久しぶりに抱きかけてた恋心がしぼんでしまった、そんな時に映画祭でモトカノとモトモトカノと遭遇。
モトカノは友達に囲まれて楽しそうで。
モトモトカノは彼女さんと一緒でシアワセそうで。

自営の私は人と予定をなかなか合わせられず、今年も一人で映画祭へ出かけたんだけれど、一人で映画観るのは全然平気なんだけれど、珍しくそんなシアワセオーラに当てられて、切なくなってしまった。

「淋しい」とか「孤独感」というのとは少し違ってて、ちょっと胸がきゅーんとなるっていうか、切ないなあっていう感じ。

会場でお会いしたお友達のお友達に「一人で来るなんて、強いんだねー」と言われたんだけれど、マジ弱ってたときだっただけにその言葉が刺さった。
「仕事が忙しいから、人と予定を合わせられないだけですよー」と笑顔で答えたけれど、心中は穏やかではなかった。

わたしは確かに誰かと一緒じゃないと行動できないとか、淋しいとか、そんなタイプじゃないんだけれど、そのことと今こうして彼女がいないことと、結びついていることなんだろうか?と自問する。

多分少しは関係しているんだろう。

そういう性分は変えようがないことかもしれないけれど、自覚はしておいた方がいいのだろうなあと思わされた週末でした。

*1:チキンは卒業だぜって感じで気負いすぎたのかもしれないです。でも、冷静になって考えるとその方とは確かにおつき合いするよりも友達でいた方がしっくり来るような気がだんだんしてきてます。結果オーライかなー。

チキンの魂、四十まで

さてさて、モトカノと仕事上の関わりもなくなり(後任者へ引継ぎ)、いつでも新たな恋を始められる体勢だけは万全な今日この頃。
いつになく気合十分で、社交してます。

レンアイ妄想としては、知り合ってから徐々に仲良くなって恋が育っていく感じのレンアイをしたいんだけれど、恋って啓示でも降りたかのように突然やってくるというか、落ちてしまうというか。
そうじゃないですか?

それが、わたしには抱えきれない。
突然生まれた熱情を抑えるのが下手くそで、ぐあーっと肥大してしまい、相手のことをよく知らないまま、自分の幻想を投影させて、どんどん恋心を募らせてしまいがち。

そうなるのが嫌だから、いまひとつレンアイに対し腰が引けちゃうのだ。
正直言って、怖い。
そんなヘタレな自分が満開状態になってしまうことが。

そういうのは、もうやめにしたいんだけれど、じゃあどうすればいいのかがいまいち分からない。



つーか、「どうしていいか分かんなーい」とか、かわいこぶって言ってる場合じゃないですね。
四十なんですから。

おし。具体的にどうすればいいか考えよう。

まず、体力をつけること。恋愛するには体力は大事。わたしは特に恋愛初期症状における睡眠障害が出やすいので(一日2、3時間しか眠れなくなってしまったりする)、なるだけそうならないように工夫して、多少の睡眠不足も乗り越えられる基礎体力をつけるべし!
→夕食の内容と時間を見直す。消化のよいあっさりしたものを中心に。寝る直前に食べないようにする。朝、せっかく起きているんだから公園を散歩するなり、走るなりしようぜ。

次に、暇な時間を持て余さない。暇だとついついレンアイ妄想劇場が脳内で展開されてしまう。幸い、仕事はいくらでもある。ここぞとばかりに仕事をしようぜ。

それから、人と会おう。ひとりでくよくよしていても始まらない。ついつい仕事に逃げ込みすぎて、引きこもりっぱなしになりがちだけれど、それってやっぱよくない。基本的なコミュニケーションスキルが低下してしまうし。人と会うとリアルなコミュニケーションの感覚が再認識できて、肥大した妄想はおのずと萎縮していく気がする。太陽が高く昇ると影が小さくなるように。妄想を捨て、陽のあたるところへ出よう!


チキンの魂は四十までで卒業。
恋に落ちちゃっても大丈夫な体力をつけて、神様が降らせたもう「恋の縁」をしっかりキャッチしたい。

ご近所づきあい

先週の土曜、自宅から1分程のところにあるワインバーで、以前にオフ会でご一緒したKさん&Mさんカップルと飲みました。
私の仕事の都合と先方もお仕事だったので、22時スタートという遅い始まり。

2時間ほど楽しく飲んで、「また飲みましょう!」と声を掛け合い、解散。
とことこ1分歩けば、もう自宅。

こういうの、いいなあと思いました。

わたしは自営業で、店を開けて閉めるまで全部ひとりでやっていて、労働時間がすんご長いんだけれども、仕事が終わるともうくたくたで、さあこれから2丁目行こうとか余力は残ってない。
仕事場から2丁目までは20分も歩けば着くんですけどね・・・

ふだん、ついつい仕事ばかりしてしまい、引きこもりがちなわたしとしては、人と人との繋がりが、生活に密着した場所でゆるやかに持てると、とてもいいなあ、あり難いなあと思ったのでした。

しっかし、近所のバーでとてもおいしいワインを飲みながら「親指をどう使うか?」とかさ、普通に話せるのってすごい楽しかったよー。