第3回まんこ座談会レポ

先月の連休の中日に第3回まんこ座談会を開いたよ。
あー、あれからもう3週間以上経っちゃったんだなあ。
あの頃はほら、こんなだったもんで、レポ書く余裕なしだったんだよね。

今回は、秋に行われる第22回ウーマンズ・ウィークエンドに、このまんこ座談会的なのをワークショップとしてやろうよっていう企画があって、その打ち合わせも兼ねていたので、もうまんこ語りは白熱!!
結局、ワークショップの進行原稿を作成し終えたのは朝7時だった。
夜が明けてからは、みんな異様なテンションで「これやりながら、この曲流したい〜」とか大盛り上がりでさ、冷静になってみてそれが果たして盛り上がるのかどうかは、リハやってみないと分からないけれど、でも多分面白いと思うー。

まあ、そういう訳で、酔ってしまって話したかったことが話せなかったーってなるのが嫌だったから、事前に話したいことを文章にしてみたの。
以下は、ミクシーの日記に上げたもののコピペ。

1.「美しい」まんこ、「萌える」まんことは?
男性にとってのまんこは客体だが女性にとってのまんこは主体。
「どんなまんこがよいか、好きか」という品定め的な視点ではないまんこ語りを。
わたしには軽い醜貌恐怖があって、まんこ周辺はコンプレックス的要素が濃縮されてるエリアでもある。
「どんなまんこだって美しいわ!」という政治的に正しそうなお話ではない、ぶっちゃけたトークを。

2.インポについて
ここんところやっと快復傾向にあるのだが、まだまだ勃ちが悪いです。
さらっさらしてます。
インポの意味について考えたい。
インポがもたらす変化について、良いことも悪いことも。

3.セックスしない身体とセックスする身体の違い。
わたしはかれこれ10ヶ月ぐらいセックスしていない。過去には3年ぐらいセックスしてないこともあった。
今後もセックスしない生活がデフォルトになるだろう。
三砂ちづるなどに代表される無邪気な身体論は、女はセックスし子供を生むことで心身の健康が保たれるような主張を展開するが、実際にセックスすることで得られる身体的精神的効用とはあるのか、あるとしたらどんなことか、そして、それを他の行為や身体操作で置き換えられる可能性について考えてみたい。
mixiの日記より転記)

これら3つの話題については話したような、話さないようなって感じ。なんせ、トークが膨らむし、飛ぶし、ひとつのところに留まってなんかいないぜ!って勢いだったから。

1の話がらみでいうと・・・
自分のまんこのコンプレックスについて語りだしたとき、なんだか急に悲しくなってしまってわたし泣いてしまったのさ。
Mさんに「どうしてそう(汚いとか醜いとか)思うの?人と比べたわけじゃないんでしょ?」と言われたんだけれども、小学生ぐらいのとき、わたしには自分のまんこがどんどん毛で覆われてゆくのが嫌で嫌で、色もくすんでゆくのが恥ずかしくって仕方がなかった。そんなのは自分だけなんじゃないかって思い込んでた。どうしてそう思うようになったのかは今になってもうまく説明できない。
大人になって少なくない数の色々なまんこを見てきて、自分のまんこは割と普通っていうか、もっとキャラ立ってるまんこってたくさんあるなあって分かったんだけれど、だからって自分のまんこを肯定できるようになったかというと、それはまた別の話。
Mさんに「それだけまんこが貶められているってことなのよ!」と言語化してもらったんだけれど、根っこはそういうことなんだろう。

2の話は、あんましうまく膨らませられなかった。
インポは多分緩解傾向にあると思うんだけれど、なぜかオナニーの回数は激減。「んもー、いまわたし、オナニー氷河期ですよー」って言ったのは覚えてるんだけど。はは。

3の話は、けっこういい膨らみになったと思う。この辺の切り口からボディワーク的な要素をワークショップに入れてみようという流れが出来たし。

それにしても、Mさんのしてくれた、たちの悪いタチの話は面白かったなあ。
わたし、KちゃんとMちゃんカポー相手に馬乗りになって恥骨結合を緩めるときの体位とか実演しちゃったりした。
酔ってたなー。楽しかったなー。


Kちゃんが見事に書記してくれて、Mちゃんは会話の段落を区切るように、ナイスなタイミングでキャッチーなコピーをつけてくれて、朝7時まで一滴も飲んでないこの二人のおかげで、座談会がいい具合に締まってるんだと思う。ホント感謝。

話の途中で、「うちら今夜何回『まんこ』って言っただろうねー?」てKちゃんが言ってたけど、マジ1万回級だったよ。あの夜は。