越境すること トランスもしくはハイブリット

ここのところ、境界線について考えている。


「あっち」と「こっち」に境界線を引く。
ごちゃごちゃに混ざってしまわないように。
どこになにがあるか分かんないと不便だから。
誰にとって不便なのか?
まあ、所有者とか管理者とか、支配者とかだよ、多分。


母集団に何らかの条件付けをして二分する、あるいは何某かの要素を持つものを抽出する。
それらのおこないは現実的には完璧にやるのは困難な作業だ。
たいてい「これってどっち?えっとどこにも当てはまらないや・・・」っていう個体が現れて、「とりあえず、こっちいっといてー」ってな、いい加減な現場の判断でどうにか体裁を保とうとする。

そういう局面をいくつか経験すると、「このラインってほんと意味あんのか?」とか疑問も湧いたりするけれど、境界線の意義を問うことの対費用効果を考えたりして、境界線はその場にあり続けるってことも多い。

そもそも誰かの(あるいはある集団の)利便性(もしくは利益)のために引かれた境界線ってやつは、なかなか消し去りがたいし、「お断りだよ!」って意思表明をしても、誰かが無邪気に「あ、線消えちゃってて分かりにくかったですね。すみません。」なんて言ってぴーっと引いてくることもあるわけで。


まあ、境界線はしぶとい。


境界線を越える。

境界線上にとどまる。

境界線など気にせず、「あっち」の人でもあり「こっち」の人でもある。

という選択肢があるのだということに、あるカテゴリーの中に居続けると気がつきにくい。そういう発想が湧きにくい。


境界線が自らの目の前に存在するとき、わたしはこれらの選択肢があることを踏まえ十分検討した上で意思決定しているだろうか?
そういう視点に気づかせてくれるのは、現実にトランス(越境する)もしくはハイブリット(境界線を無効化する)な存在だ。

わたしは、トランスもしくはハイブリットな存在に、惹きつけられ触発される。


で、ですね。
なんでこんなことを考えたり文字にしたいと思ったりしたかなんだけど、それは数年前に読んだ本(『女は何を欲望するか』内田樹*1)がきっかけって言えばきっかけなんである。

その本の中では、「境界線を越えるもの、ハイブリットな存在」を、人が恐れ嫌悪し排除するのが当然な「人間の文明が許容しない存在」として、もう全否定なんだよね。

何回か読み返すうちに、反証可能なパートがいくつも見えてきたし、もういいかって気分ではあるんだけれど、一度言語化して、今後の思考の材料にしたいとも思えたので、書いてみる。


以下の引用は『女は何を欲望するか』内田樹著 p196-p198 映画『エイリアン4』をフェミニズム映画論的に読み解くくだりの一部。

 「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すものではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。
 キマイラ、スフィンクスグリフォン、ぬえ、といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパターンからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間のわずかな想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界を守らぬものたち」である

わたしたち人間の想像力で産み落とされたハイブリットな「怪物」たちは、物語の中で怖れられている一方だろうか?
それならばなぜ、人は時代を越えて「怪物」たちの登場する物語を編み出し、そして愛し続けるのだろうか?

なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?
 その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる」。
 古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考パターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。
 そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリットに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。

デジタル化というのは粗にするということであり、だいたいの全体像が継承されるようデータを圧縮するということでしょ。
把握し取り扱いをしやすくするためのひとつの便法であって、それを「文明」と言い切ってしまうのは乱暴ではないの?

私たちはハイブリットを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。 

初期設定が間違っているように思う。「人間の社会」がではなく「把握したい誰かにとっての社会」が、ではないか?



この文章(引用した部分)が、ずーっと気になってた。

わたしを戸惑わせたのは、ハイブリットな存在に対し簡単に「気持ち悪い」と言えてしまう素朴さである。
ハイブリットな存在は本当に気持ち悪いのか?

以降、わたしは日々の中で「カテゴリーの境界を守らぬものたち」=越境(トランス)するものたち、そして「Aであり同時にBであるもの」=ハイブリットな存在を今まで以上に意識するようになった。

そして自分の中に、トランスもしくはハイブリットな要素がどこら辺に散らばっているのか気になり始め、また頑なに境界線を越えないようにしている部分がありそうだということにも気づき始めた。

あるカテゴリーに無理やり押し込められたり、カテゴリーにふさわしい何らかのふるまいを強いられることに対し窮屈さや違和感を感じることはあっても、目の前の境界線を越えることや線上にとどまるという発想が今までのわたしには、まったくと言っていいほどになかったので、まだ視界が開けていないもどかしさはあるけれど、少しずつ思考を積み重ねたい。

思考が進んだら追記していきます。



今回新書版を読んで気になった箇所


新書版のためのまえがきより

(単行本が書かれた時期と)今ではフェミニズムを取り巻く知的状況はずいぶん様変わりしました。フェミニズムは今ではもうメディアや学術研究の場での中心的な論件ではなくなっています。

え、そうなの?

大学ではまだ教科書的に「ジェンダースタディーズ」が教えられていますけれど、そのステイタスは一時期の「マルクス主義経済学」に近いものがあります。喫緊の社会問題を論じるときに「父権性イデオロギー」や「社会学的に構築されたジェンダー」が社会システムの不調和の原因であるというような説明をしても、耳を傾ける人はもうほとんどいません。これほど短絡的に社会理論が威信を失ったのも珍しいケースでしょう。

え、え、そうなの?

こうだとはにわかに信じがたいが、アカデミズムの中のことは門外漢だからなあ…
この記述のリアリティーを、うろうろして確認してみたいところ。




■昨年新書が出た際にネット上でも書評がたくさんアップされたけれど、わたしが思考の助けにしたブログがこちら↓

幻燈機
『女はファーストフードとスローフード、どちらを欲望するか?』
http://miyukinatsu.blog.so-net.ne.jp/2006-04-25

Ohnobulog2
『「ミソジニー」といかに付き合うか』
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080413/1208054577


空中キャンプ
『「女は何を欲望するか?」/内田樹
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080518#p1



■このエントリに出てきた本はこちら↓

女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)


※アカデミズムの世界でのウチダ先生の位置づけがどんなものかは、わたしは知らない。だけれど、わたしの業界ではウチダ先生的な素朴な身体論がむしろメインストリームで、マジでヤバいことを言う人が現実にわんさかいるのである。黙殺できるほど小さな勢力ではない以上、反証できるように思考を鍛えておく必要はあるとひりひりと感じている。

*1:内容は「フェミニズムのどのあたりが戦略ミスであり、どこらへんが次世代へと引き継ぐべき価値のある理論なのか」を「フェミニズムに賛成で反対」というビミョーなスタンスで論じたもの。今回は引用部分に限って触れたけれど、他にも突っ込みどころはたくさんあって、そのすべてに対し、まともに取り合うのは骨が折れるんだけれど、ウチダ先生はマジだし、かなり戦略的にケンカ売ってる。一回ぐらいは読んでみてもいいと思います。