『愛すべき娘たち』 よしながふみ
わたしは、今、恋をしていて、それも大変久しぶりなので、いろいろ動揺することも多くて、楽しいのだけれど、こころが「今まで使っていなかった筋肉を急に使い出したので、筋肉痛になりましたー」みたいになっています。
これまでのレンアイでは、「お付き合いしましょうか」というタイミングと「セックスしましょうか」というタイミングが、ほぼ同時とか、セックスが先とか、そんな感じだった、汗。
相手に対する愛情は、今にして思うと、欲情の波と交差するように徐々に育てていく感じ。
今回は、はじめに、がっつり、どっさり、こころを持っていかれてしまい、お付き合いを決めたときには、まだ手しか握っていないという状況だった。
コミュニケーションにおいて、性愛に寄りかからないということは、なんだかとても、もどかしい。
お互いの距離が縮まるまでに、時間もかかりそう。
けれど、その分言葉を尽くそうという気持ちになるし、小さな身体的接触がとっても嬉しく感じられたりします。
それから・・・
長いこと、ひとりで穏やかな生活をしていたせいか、身近に「とっても大好きな人がいる」という感覚にどうも慣れません。
よしながふみさんの『愛すべき娘たち』の中に、
亡くなった祖父から「分け隔てなく、人と接しなさい」という教えを幼い頃から受け、守ってきた女性が、ようやく本当に愛せると思える人と出会ったのだけれど、
「誰かを愛するということは、分け隔てるということなのだ」と気がついて、
尼僧になってしまうというエピソードが出てきます。
アマゾンの書評で、彼女のことを「人を愛することができない人」という読みをしていた人もいたけれど、それは違うだろ。
彼女の愛というのは、なんというか、シンプルにその人の幸せを願う心情というか、立場や枠組みなぞに囚われないというか、純度が濃すぎて凡人の生活の中じゃ浮いちゃうようなものなんじゃなかろうか?
久しぶりにレンアイをして、一筋の涙とともに彼女の口からこぼれ落ちた、この台詞を思い出している。
多くのレンアイ関係において認められる、排他的優先権みたいなものを与えられたり、与えたりしたい欲望を今までほとんど感じたことがないわたしには、この「分け隔てる」ということに相当するような言葉や行動に対して、違和感や窮屈な居心地の悪さ、自己肯定感を損なうような負の感情などを感じることが多かった。
自分は、どういう言葉と行いを積み重ねて、どういう繋がりをつくってゆくのだろうか・・・
わたしは、けっこういい歳なので、この歳で、こういう気持ちになるのは、ワクワクと同時に不安や怖さも強い。
「愛する」って、どういう感情と行為を指すのか。
そのことがいまだによく分かっていないということだけは分かるようになりました。
- 作者: よしながふみ
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2003/12/19
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